LOGIN「……ごめんなさい」 「謝るな」 「でも」 「今はそれ以上言わない」 彼の声は低い。 だが、命令ではない。 こちらの限界を見て、そこから先へ踏み込まないようにしている声だと分かる。 そのことが、また少しだけ胸を揺らす。 リリアーナは寝台脇の長椅子へ腰を下ろした。 急に膝の力が抜けたのだ。 危機の最中より、終わって安全な部屋に戻ってきてからのほうが、体は正直だった。 セドリックが一歩、近づく。 距離は前よりずっと近い。 でも、触れる前に止まる。 そこが、前世と決定的に違う。「薬を塗る」 「女医は?」 「今日は下がらせた」 「どうして」 「君が知らない顔へ何度も傷を見せるのを嫌がると思った」 その読みが当たっていることに、リリアーナは少しだけ唇を噛んだ。 嫌だった。 知らない誰かが、自分の震えた手や、遅れて出る怯えを平然と見ていくのは。「……そう」 「嫌ならやめる」 「いいえ」 「どちらだ」 「……あなたなら」 そこまで言って、声が止まる。 “あなたなら”の先を、自分で補うのが怖かった。 セドリックは何も言わなかった。 ただ、机の上の小瓶と清潔な布を手に取る。 近づいてきた時、かすかに外気と革の匂いがした。まだ完全に夜の戦いの気配が抜けきっていない。「染みる」 「ええ」 「我慢しろとは言わない」 「優しいのか、冷たいのか分からない言い方ね」 「今の私にちょうどいい言葉が分からない」 「……そう」 布が傷へ触れる。 ひり、と小さく痛む。 でも、その痛みは生きているほうの痛みだ。 それを今、妙に強く意識した。 セドリックの指先は意外なほど慎重だった。 力が強いのに、傷へ触れる時だけは迷うように弱い。 まるで、壊れものに触れているのではなく、壊したくないものに触れているみたいだった。「……そんなに恐る恐る触らないで」 「難しい」 「どうして」 「今夜は、何をどこまでしていいのか分からない」 その一言に、呼吸が少しだけ止まる。 何をどこまでしていいのか分からない。 それはたぶん、傷の手当てのことだけではない。 この夜の距離のことだ。 互いに張りつめていたものがほどけかけているのに、どこまで近づけば壊さずに済むのか、彼にもまだ分からな
その言い方が、あまりにもぎこちなくて、リリアーナは一瞬だけ目を伏せた。 この人は今、本当に変わろうとしているのだ。 それが分かるから、余計に胸の奥が疼く。 袖を少しだけ捲る。肘の少し上、窓ガラスの細片で薄く裂けた場所に、赤い筋が一本だけ残っていた。止血はしてある。深くはない。だが白い肌の上だと目立つらしく、セドリックの目がわずかに細くなった。「これを大したことないと言うな」 「本当にそうよ」 「今日の矢があと少し内側なら」 「分かってる」 「分かっていない」 「分かってるってば」 少しだけ声が強くなる。 分かっている。 あと少しずれていれば、首筋か、肩か、もっと深いところへ届いていたかもしれない。 分かっているからこそ、今はそれを考えたくないのだ。「今、そこを何度も言わないで」 「……」 「怖いもの」 その一言が出た瞬間、部屋がしんと静まった。 暖炉の火が、小さくはぜる。 それ以外の音は何もない。 セドリックの顔から、さっきまでの張りつめた硬さがほんの少しだけ崩れた。 怖い。 その一言が、彼にも届いたのだろう。 守ると決めて、共に戦うと口にして、それでも今日の自分が、やはり怖かったのだと。「……そうか」 低い声。「怖かった」 「ええ」 「私もだ」 その返答に、リリアーナは顔を上げた。 彼は嘘をついていない。 強がってもいない。 ただ、同じ重さのまま、その言葉を返してきた。 私もだ。 その短さが、なぜか胸へ深く落ちる。 前世の彼なら、絶対に言わなかった。「……あなたも?」 「矢が窓を割った瞬間、前の夜を思い出した」 「……」 「二度目は無理だと思った」 「……」 二度目は無理。 その一言が、ひどく静かに胸を刺す。 前世で自分の死を見た男が、今こうして同じ夜をもう一度見るかもしれないと思ったのだ。 怖くないはずがない。 リリアーナはゆっくり息を吐いた。 手の震えはまだ止まらない。 だが、その震えを一人で抱えているのではないのだと思うと、少しだけ呼吸が深くなる。「……私も」 「何だ」 「無理だと思ったわ」 「……」 「今度こそ、あなたが間に合っても、今度はまた少し違う形で終わるのかもって」 「……」 「だから、叫んだの」 「右後ろ
侯爵邸へ戻った時には、夜はもう深く沈んでいた。 庭の木々は風を失い、窓の外の闇はひどく静かだった。つい先ほどまで耳のすぐ横で鳴っていた怒声や、馬の荒い息や、石畳を蹴る足音が嘘のように遠い。けれど、静けさの中へ戻ってきたというだけで、出来事そのものが薄まるわけではない。むしろ音の消えたあとのほうが、さっきまでそこにあった危機は、輪郭をはっきりと持って胸へ残る。 今夜の囮は、成功した。 少なくとも表面上は。 北門側から出るという偽の情報に食いついた商会筋の手が、予定通り動いた。護衛を薄く見せた馬車へ近づき、外郭で待機していた侯爵家側の者たちが一気に押さえ込む。その流れ自体は、セドリックとローレンスが事前に組んだ通りだった。だが、敵はそれだけでは終わらなかった。 囮へ意識を向けさせた裏で、本命は別にいた。 東側の細い裏道。侯爵邸へ戻ると見せず、一度だけ王都南区の礼拝堂裏へ回るという、リリアーナにも直前まで伏せられていた補助ルート。その小さな回り道の先で、馬車の車輪を狙った矢が飛んだ。一本、二本。二本目は窓枠を掠め、ガラスが細く砕けた。 あの瞬間のことは、帰ってきた今もまだ、体のどこかが思い出している。 裂ける空気の音。 ガラスの破片が袖口へ入り込む冷たさ。 セドリックの腕が、とっさに肩を抱き寄せた強さ。 馬車の壁へ背がぶつかった鈍い衝撃。 そして、次の矢が来る方向を、前世の記憶に似た何かで、咄嗟に言い当てた自分の声。『右後ろ、低い位置!』 それは理屈ではなかった。前世で一度だけ、同じような呼吸の止まり方を経験した体が、先に動いただけだ。セドリックはその声を聞くより早く剣へ手をかけ、次の瞬間には馬車の扉を蹴り開けていた。護衛が叫ぶ。誰かが地面へ崩れる音。雨上がりの泥を踏む足音。短い乱闘。その全部が、まるで薄い膜一枚向こうのことみたいに遠かった。 終わったあとで初めて、自分の手が震えていたことに気づいた。 そして今、その震えは、ようやく少し遅れて本格的に体へ戻ってきていた。「傷は」 部屋へ入ってから、たぶん三度目の問いだった。 セドリックは扉のすぐそばに立ったまま、低く言う。服は着替えているが、髪だけはまだほんの少し乱れていた。黒に近い室内着の襟元はきちんと整えられているのに、袖口へ残るわずかな擦れ跡だけが、今夜彼もまた静かで
* その小さな揺れは、夜会の終わり近く、ついに態度へ出た。 大広間の空気が少しだけ緩み、人々がそれぞれ小さな輪へ散り始めた頃だった。音楽はやわらかく、会話のざわめきも低くなっている。壁際の鏡には、灯りと人影が重なって映り、どこが本物の空間で、どこからが反射なのか一瞬分からなくなる。 リリアーナは急に、息が詰まりそうになった。 暑いわけではない。 人酔いでもない。 ただ、嬉しいと思ってしまった自分を、急に持て余したのだ。 こんなふうに扱われることを。 隣にいていいのだと、公の場で示されることを。 その変化が、心のどこかをやわらかくした。 そのやわらかさに、今さら自分で怯えた。「……少し」 気づけば、小さく声が漏れていた。 隣にいたセドリックが、すぐに視線を落とす。「どうした」 「少しだけ」 「苦しいか」 「ええ……たぶん」 彼は一瞬も迷わなかった。 周囲に人はいる。 会話の輪もある。 それでも、リリアーナの手を取り、そのまま大広間の外へ向かう。 引っ張るのではない。 急かすのでもない。 けれど明らかに、今この場では彼女が優先なのだと誰の目にも分かる形で。 それを見て、またざわめきが生まれる。 でももう、今はそんなことを気にしていられなかった。 廊下へ出ると、ひんやりした空気が頬へ触れた。 窓の外は夜で、庭の灯りだけが小さく揺れている。 大広間の熱と香りが一歩分だけ遠のき、ようやく呼吸が深く入った。「……ありがとう」 壁際に手をついて、リリアーナはゆっくり息を整える。「人が多すぎたか」 「違うの」 「なら何だ」 「……」 すぐには言えなかった。 こんなこと、説明できるだろうか。 人前でちゃんと扱われたことが、嬉しかった。 その嬉しさが怖くなって、急に苦しくなった。 そんな、あまりにもみっともない本音を。 でも今の彼は、待つ。 問いつめずに。 昔のように沈黙の中へ閉じ込めるのでもなく。「リリアーナ」 低い声が落ちる。「言え」 「……」 「分からないままにはしたくない」 その一言が、背中を押した。 リリアーナは目を閉じた。 夜の空気が少し冷たい。 その冷たさが、
* 夜会の中盤、ひときわ大きなざわめきが起きたのは、例のクラウディア侯爵夫人が近づいてきた時だった。 あの、今朝方継母の茶会を“急病”で取りやめた女。 そして、社交界で誰を切り、誰を残すかを、笑顔のまま決められる女。 彼女は、薄い藤色のドレスをまとっていた。年齢に似合わぬ色ではない。むしろ、成熟した女が着ることで初めて品よく見える色だ。目元には笑み。だが、その笑みの奥にある計算高さは相変わらず鋭い。「セドリック様、リリアーナ様」 彼女は立ち止まり、二人へきちんと視線を向けた。 前なら、先に侯爵の名を呼んでいた。 今日は違う。 そこがもう、空気の変化の証だった。「ご機嫌よう、侯爵夫人」 「ご機嫌よう」 「お二人が並んでいらっしゃるところを拝見できて、安心いたしましたわ」 その“安心”の意味を、リリアーナはすぐ理解した。 伯爵家の不正が表へ出た今、自分が実家と運命を共にするのか、それとも侯爵家側へ立つのか。社交界はそこを見ている。クラウディア侯爵夫人がこの場で「安心」と言うのは、つまり、侯爵家が彼女を切り捨てていないと見て取ったからだ。 リリアーナは一拍だけ迷った。 だが、その迷いより早く、セドリックが低く言った。「彼女に無用な不安を与えるつもりはない」 言葉としては短い。 だが、その一文の中に“彼女”という呼び方がある。 距離を置くための“伯爵令嬢”でも、“婚約者”という役割名でもなく、ただ彼女。 クラウディア侯爵夫人の笑みが、ほんの一瞬だけ深くなった。 ああ、と理解した顔だ。 これは単なる体裁ではないのだと。 少なくとも、この男の中では。「そうですのね」 彼女はうなずき、今度はリリアーナへ向かってやわらかく言った。「なら、今後はお会いする機会も増えるでしょう。どうか、もう遠慮なさらずに」 「……ありがとうございます」 「こちらこそ」 その会話のあいだ、セドリックの手は一度も離れなかった。 強く握るわけでもない。 けれど、自然にそこにある。 それだけで、言葉より雄弁だった。 社交界の空気は、その場で目に見えないほど静かに動いた。 女たちの視線の質。 男たちの会釈の深さ。 使用人たちの案内の仕方。 何もかもが、今までよりほんの少しずつ違う。 リリアーナ
* 夜会の会場へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。 前世でも知っている、大広間。 高い天井から下がるいくつものシャンデリア。 磨かれた床。 壁際の長い鏡。 春を先取りした白と薄紅の花。 それらすべてが、ひどく鮮明に見えた。 ざわめきが、一拍遅れて広がる。 冷徹侯爵。 その婚約者。 最近やけに近いと噂されている二人。 伯爵家の不正が表へ出て、娘は実家を切ったらしい。 それなのに、侯爵はなお彼女を伴っている。 その意味を、社交界が読み取らないはずがない。 セドリックは今夜、最初からリリアーナの手を取ったまま歩いた。 形式だけのエスコートではない。 逃がさず、でも痛くなく、指先が震えれば分かる程度の強さ。 その手の取り方ひとつで、空気の読みが変わるのが分かった。 ああ、と思う。 見せているのだ。 この人は今、わざと。 名ばかりの婚約者としてではなく。 家同士の取り決めとしてでもなく。 自分の意志で、彼女を隣へ置いていると。 その事実が、王都の女たちの視線を一瞬で変えた。 前世では、自分を見る目の中にいつも薄い侮りがあった。 侯爵が情を見せない女。 立派な肩書だけを与えられた人形。 そういう目だ。 今夜は違う。 まだ好奇心はある。 噂を測る目もある。 けれど、その奥にあるものが少しだけ変わっている。 あの侯爵が、明らかに彼女を優先している。 そう認識した者の目だ。「リリアーナ嬢、お久しぶりですわ」 ある侯爵夫人が、柔らかな笑みで近づいてくる。 前世なら、まず先にセドリックへ挨拶を向け、自分へはおまけのように言葉を落とした人だ。 だが今夜は違った。 最初に自分の名を呼んだ。「お元気そうで」 「ありがとうございます」 「お顔色もよろしいのね」 「ええ、少しずつ」 「それは何より」 そのやり取りの間、セドリックは一歩だけ後ろへ引くわけでも、逆に割り込むわけでもなく、リリアーナの隣にそのまま立っていた。 それが絶妙だった。 “任せる”のではない。 “見守る”のでもない。 隣にいる。 ただそれだけで、この人が今どの位置に自分を置いているのか、周囲には十分伝わる。 次の婦人も、若い伯爵夫人も、皆どこか慎重だった。
呼吸が浅くなる。「お嬢様、本当にお加減が……」 「エマ」 顔を上げる。エマは心配そうに眉を寄せていた。何も知らない目だ。この子はまだ、侯爵家の冷たさも、あの結婚がどういうものになるかも知らない。何も知らないまま、数日後には笑って見送るのだ。どうかお幸せにと。 その純粋さが、ひどく痛かった。「婚約調印は……明後日ではなく、四日後だったわね」 「はい。旦那様も奥様も、支度に慌ただしくしておられます。お嬢様のお支度の最終確認も本日中に、と仰っていて」 「そう」 やめなければ。 その言葉が、驚くほどはっきり胸の中に落ちた。 やめなければ、また同じになる。 同じ朝を迎え、同じ家へ
窓辺の椅子。白木の化粧台。淡い花柄の壁紙。小さな暖炉。磨かれた床板。壁際に置かれた、母が選んだと自慢していた陶器の花瓶。 ここは。 ここは、エヴェルシア伯爵家の、未婚の令嬢だった頃の自室だった。「……エマ?」 声を出した瞬間、自分で息を呑んだ。 高い。若い。喉を使うたびに微かに震えるその声は、侯爵夫人として十年を過ごした女のそれではなく、もっと柔らかく、まだ世間に擦り切れていない頃の声だった。 ベッド脇に立つ侍女が、ほっとしたように眉を緩める。「はい、お嬢様。お目覚めでございますか。少しうなされていらっしゃいましたので、起こすのが遅れました」 エマ。 栗色の髪をきっちりま
最初に戻ってきたのは、痛みではなく、冷たさだった。 骨の奥へ、針のように細く、しかし容赦なく差し込んでくる冬の冷たさ。肌の表面ではなく、血の流れそのものが凍っていくような冷えだった。指先はとうに感覚を失っていたはずなのに、なぜか唇だけがひどく寒かった。息を吸おうとしても胸がひしゃげたように動かず、喉の奥では鉄の味がした。鼻先を掠めていくのは、夜気に濡れた石畳の匂いと、花壇の土の湿った匂いと、そして、濃く、温かく、気持ちが悪いほど甘い、自分の血の匂い。 ああ、死ぬのだ。 その時のリリアーナは、驚くほど静かにそう思っていた。 怖くないわけではなかった。怖いに決まっている。まだ二十九だっ
リリアーナ・エヴェルシア年齢:20歳スタート身分:エヴェルシア伯爵家長女外見:蜂蜜色の長い金髪、柔らかな翡翠色の瞳。白い肌に華奢な体つき。儚げな美貌だが、目の奥には芯の強さが宿る。淡いピンクや生成りのドレスがよく似合う。性格:穏やかで礼儀正しいが、ただ耐えるだけの女性ではない。追い詰められるほど静かに覚悟を固めるタイプ。人の悪意にも鈍くはなく、見て見ぬふりをしてきただけ。長所:忍耐力、気配り、家政と帳簿の管理能力、薬草知識、社交の場での観察眼など。短所:一度情をかけた相手を簡単には切れない。自分の痛みを後回しにしやすい。セドリック・ヴァレンティア侯爵年齢:27歳スタート身分







